【プロローグ】
1959年くらい
大阪


(*^◯^*)「この部品を見て欲しいんだ!」






彡(゚)(゚) 「なんやパチンコ部品の押し売りかいな。去ね去ね。」







(*^◯^*)「いいから見るんだ!」








彡(゚)(゚)「……」 




 




彡(^)(^) 「なんやこれ!ここに玉が入るとこれが開いて、また玉入ったら閉じる…クッソ楽しい役物やんけ!」




(*^◯^*)「大発明なんだ!横浜にもこんな選手がいるんだ!」





彡(゚)(゚)「……」 





彡(^)(^)





※1960年、役物の登場でにわかに客が戻りつつあったパチンコに新たな起爆剤が登場します。



「奇跡の役物」とまで呼ばれるチューリップです。





※大阪の部品メーカーが発案して、成田製作所が特許を出願したものだそうです。



今の電動チューリップ(電チュー)と違い、

玉が入る

チューリップが開く

玉が入る

チューリップが閉じる


というアナログなものでした。



1966年には役物等の機械基準が緩和されます。


1個の入賞で払い出しの上限が15個で、一回の入賞でもう一度入賞が狙えるこの役物は瞬く間に人々を虜にします。



最盛期でチューリップは500万個も売れたというので凄まじいですね…











【連発式、解禁!】
※手打単発式は遊技者の技量に相当差が出るものでした



初心者の場合

(*^◯^*)(なかなかスムーズに打ち出せないんだ!)

(*^◯^*)(1分間に50発くらいが限界なんだ!)




上級者の場合


彡(゚)(゚)(…………)


彡(゚)(゚)(ふむ1分間だと130発くらいやろか)




とこのように倍以上の差が生じていました。

1969(昭和44)年、14年の時を経て警察庁により遊技機の新要件が発表され連発式が解禁されました。

1分間に打ち出せる玉の上限が100発になり(現在も同じ)打ち手の遊技レベルの差がほぼなくなります。


これは上級者にとっては技術に制限がかけられ、下手な人にとっては単純に打ち出し個数が増えるので遊技者の裾野を広げたことになりました。











【空前のチューリップブーム】

1970年くらい
群馬県 平和

彡(゚)(゚) 「チューリップを複数個付けるメーカーが増えたンゴね…」 




彡(゚)(゚)「安易にこの3個以上チューリップを付けるブームに乗ってもええものか…?」 







彡(゚)(゚)「……」 








彡(^)(^)





大三元(平和)
※写真は大三元の後継機

他がチューリップが3個なら、平和は14個付ければいいじゃない。
この大三元、麻雀よろしく14個のチューリップを配し、電気を用いずに役物を連動させていました。

南、東の入賞口に入ればチューリップ10個開放。

放銃と書かれたチューリップに入賞すると全て閉じる仕組みなので、

いかに閉じないようにチューリップを狙い出玉を稼ぐか

ハラハラドキドキのゲーム性…

まさに現在のオリンピアのパチスロマキバオーのような戦略性がこのころから存在した可能性が微レ存です。








なんとなーく、勢いを取り戻しつつあったパチンコ業界。
しかし、またしても未曾有の危機を迎える。

次回
「最強の侵略者」

お楽しみに!

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【プロローグ】
1957年くらい
パチンコ店



(゚)(゚)「パチンコ店はかつて4万軒を超えてたンゴね…」   

※1953年頃、パチンコ店はピークの約43000軒でした。





















彡(^)(^)「1957年現在、
8487軒www
業界オワタwww
クソワロタンバリンシャンシャンカスタネットタンタンプップクプーシャンシャンブーチリリリリリンwwwwwwww  
            
※連発式禁止令から2年、店舗数はピーク時の20%以下まで落ち込みます。






彡(^)(^)「ていうかぁ」













彡()()「ウチも潰れりゅうう ああああああああ!!!!!!!!!!!」(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )
 

まさに暗黒時代なのです。








      
      








【躍動の西陣】

1956年くらい
西陣

(´・ω・`)「まずうちさぁ…屋上…あんだけど…焼いてかない?」




(´・ω・`) 「」















(´・ω・`)「まずうちさぁ…盤面中央の賞球ケース外さない?」





※正村ゲージ開発以降中央の赤い円形部は払い出す賞球を貯める賞球ケースとして使われていました。(上図は正村ゲージオール15)



(´・ω・`)「賞球ケース外して玉がもっと躍動感にあふれる感じの仕組みにしない?」








ジンミット(西陣)

パチンコ史上初めて役物の概念を導入。賞球ケースの代わりに玉の入賞に変化を及ぼすための構造物である役物を設置。
センター役物という名称は現在に至るまで使われていますが今のパチンコにおいては大部分を液晶が占めています。


※ちなみにジンミットという名前は
神武景気のジン
受け止めるでミットらしいです。
(わけわかんねぇな…)


※役物第一号を考え出した西陣初代会長清水氏は野獣先輩ならぬ役物先輩として、みなさん、崇めていただきたいのです。













【そして、平和】

1957年くらい
平和

(*^O^*)「上とほぼ同じことを思いついたんだ」


(*^O^*)「…」




(*^O^*)「ウチならもっと賑やかに出来るんだ!」

      

コミックゲート(平和)
仕組みとして西陣と同じであるが、入賞した玉が役物に仕込まれた風車を回転させる仕組みになっており、見た目に楽しいという視覚的効果を狙っていた機種。この事から「コミックゲート」も役物に動きを加えるという新たな発想を持った可動式役物第1号ということなります。

※賑やかさに定評はこの頃からですかねぇ…(呆れ)





こういった西陣、平和の役物機は大好評を博し、遊技客が戻り始め、同じような機械を開発するメーカーが増えます。


役物という光明が暗黒時代を抜け出すきっかけになりました。





1958年、パチンコ店はついに増加に転じます。





さぁ反撃の時だ。

次回
「奇跡の役物」

お楽しみに!

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【プロローグ】
1953年くらい
ツバメ製作所




(゚)(゚)「連発式大人気ンゴ…」  


※富国遊技工業の機関銃式を取り入れた遊技機が大人気。
単発式が1分間に50~70個に対し、
機関銃式は1分間に130~150個打ち出せました。(前記事参照)






彡(>)(<)「そんなに連発式がええんか!連発で飛べばええんか!」   

※ツバメ製作所の竹内竹二郎氏は憂いていました。







彡(^)(^)「!」              










    



彡(^)(^)「もうハンドルなくしたろ!
モーター付けて1分間に200発飛ばしたろ!」     


※竹内氏が考案したのは「電動式パチンコ」でした。スイッチを入れればハンドルで玉を弾くことなく、玉はモーターの回転によって自動の打ち出される仕様です。






彡(^)(^)「これは絶対大ヒットや!勝った!第3部、完!」    

  








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【警察、キレる】

1954年初頭
東京都公安委員会



(´・ω・`)「ツバメ製作所…1分間に200個?は?ガチギレ」 



※ツバメ製作所の電動式パチンコは1954年に全国警察本部長会議において採択された

「単発式を除くパチンコ機は遊技客の射幸心を著しくそそる恐れがあり、遊技機として不適切であり、今後その抑制に努めること。」

に該当するということで全国各県警本部長に通達されてしまいました。
これが連発式崩壊の引き金となります。





(´・ω・`)「オメーラやりすぎなんだよ。めんどくせぇ。世論も味方につけて、全部潰してやんよ」 



※当時の新聞社説を紐解いてみますと

「パチンコも初期の時代にはご愛嬌程度であった、しかし今日ではご愛嬌の域を脱し、社会現象として放置する事はできない。新規出店の勢いが止まらず、早朝からやっている。またたく間に一日の労賃が消えていく。景品買いという悪習のためパチンコ屋が暴力団をのさばらせている。離婚事件裁判もパチンコが原因となっているものも多い。従ってパチンコは社会悪の温床である」

というように連発式のパチンコに関する風当たりは厳しいものになっていきます。






 


1954年くらい
東京都公安委員会

(´・ω・`)「1955年をもって連発式パチンコ禁止な」 


射幸性が高くなったパチンコを単に規制するというのではなく、警察当局も風営法で禁じられている"景品買い"を発生させる程に多くの出玉が可能な連発式を禁じて、暴力団への資金源を断ちたいという思惑も見え隠れしています。









【崩壊】


1955年くらい
パチンコ店


(゚)(゚)「単発式に戻した結果…   
   


















彡()()「客来ないああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )
 

※多くのパチンコ店が1952年以前の単発式に戻り、スピード感を失ったパチンコからは客足が遠のいてしまいました。

それに合わせてパチンコ店の閉店も相次ぎ、連発式が販売された1953年にはピークの 43,452軒まで増えたパチンコ店は、


1956年には












9,365軒




と、激減してしまいました。






「今太閤」と持て囃された正村竹一氏もピーク時には7工場を運営していましたが、連発式禁止の煽りを受けて1工場を残し工場を閉鎖してしまう事になります。


 





【おわりに】
これは諸説あるものの、パチンコ店4万軒時代には日本人と在日朝鮮籍の方と経営者の比率はさほど変わらなかったと言われています。

 
この当時、朝鮮籍の方は職業選択の自由、さらには参政権も与えられなかったにもかかわらず、

税金だけは徴収されるという状況で転業が困難であり、

止むを得ず続けた結果が三世、四世世代まできて現在大半のパチンコ店経営者の大半が在日朝鮮籍の方だということに繋がっているという説もあります。






その後、1分間100発までという制限付きの連発式解禁まで13年待たなくてはなりませんでした。








次回に続…くかもしれません…
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